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 UDと都市化

 UDとは、言ってみればモノや環境を洗練していくことです。まちの都市化というのも、同じように人が暮らしやすいようにある地域全体が近代化され洗練されていくことだと思います。と、言うことは・・・都市化されていない、いわゆる[田舎]はUDと結びつかないのでしょうか。たしかに地方などの古い民家などは階段も多いし、トイレや風呂は離れにあるところもまだまだ多いでしょう。もちろん、それらは和式のものが多いはずです。障害者はもとより、健常者でも実際はたいへんなのではないでしょうか。外に出ても、例えば歩道もあまり整備されていなかったり建物も使いづらい部分が多くあるのではないでしょうか。

 しかし、それは当然といえば当然の話です。なぜなら、昔の社会(昭和初期以前)というのは健常者がすべてで、障害者というのは社会的には”いない”、もしくは”隠したい”存在であったと想像されます。だから当然、使いやすさの基準が”歩ける人・手の利く人”になってしまったのではないでしょうか。そう考えると階段であろうが、しゃがんでトイレをしようが、五右衛門風呂であろうが、使えないということはありません。町に出るにも、当時は車いすなんていうものもありませんから歩ける人が使いやすい町並みであればよかったわけです。ところが、現代では町が栄えて人が集まりだすとどんどんその町は都市化されていきます。それに伴って、町の使いやすさも多様性を持ってきます。役場などの公共施設もリニューアルされてスロープやエレベータが付いたり、これまで畑だったところが区画整理されて新しい住宅地ができ、そこには新しい住人がやってきて今流行りのバリアフリー住宅なんていうのを建てます。もちろん歩道にだって点字ブロックがつくでしょう。いたって自然な流れです。こうして町の都市化とともに、そこにはUDの考え方が取り入れられていきます。ただ、どこか淋しい気がしてしまうのは私だけでしょうか。
 たしかに町はすべて平らになり、我々でも十分アクセスしやすくなるかもしれません。ただ、なんと言うのかなぁ、日本古来の建物ってすごく美しいものが多いんですよね。例えば神社仏閣の門前にある長い石の階段なんて、すごく荘厳な感じもするし両脇の森の緑とも本当のマッチしていて私は好きなんですよね。ところが実際には車いすや足腰の弱い人は上れません。このギャップをどう埋めていくかなんです。”なんだ、じゃぁ別にエレベータやスロープを作れば良いじゃないか。”という話になりそうですが、そういう問題では・・・ないんです。あのような所はどちらかというと、雰囲気や情緒を楽しむ所だと思うのです。階段を上っていって少しずつ見えてくる建物にドキドキしたり、途中で疲れてふと後ろを見てみたら下にきれいな町並みが見えてちょっと癒されたり、そんなことも全部含めたのがお寺参りや神社参りなんだと思うのです。それを、車いすだからといって裏のほうにあるエレベータやスロープを使わなければいけないというのは、たとえば一緒に焼肉屋にいって自分だけ”メインのカルビは食べさせるけど、ユッケとデザートのアイスは無しね。アイスはいつでも食べられるから良いでしょ。”と言われているみたいなものです。たしかにアイスはいつでも食べられますが、焼肉のあとのアイスは別ですよね。(すみません、焼肉大好きなもので・・・)石の階段の情緒を残しつつ、それに替わる何か新しい発想の昇降システムがあるといいのですが・・・。
 また、たとえば世界遺産にも登録されている白川郷の合掌造りの集落の風景なども、いかにも牧歌(ぼっか)的で私も好きな風景のひとつです。あそこにもし、UD化の波が押し寄せたらどうなるでしょうか。町中(村中かな?)の路地はすべて完全に舗装され、一般に公開されている古い民家なども車いすのためにやたらとスロープは付ける・エレベータは付けるなんてしたら、古い生活を見に来ているのにそれこそ本末転倒だと思いませんか。ものすごく身勝手な言い方をすれば、”アクセスする権利”の名目で進められる建物構造の合理化というのは一般的な公共交通機関や商店といったものには堂々と主張していくべきだとは思いますが、このような特殊なケースのもとではどこまで訴えていっていいのかは当事者の私でもいささか疑問が残ります。

 UDの大原則は使いやすさとともに審美性も求めることです。日本ならではの美しい風景とUDをどう融合させていくか、どう折り合いをつけていくか、研究の課題はまだありそうです。
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