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命のセンタク

 通常、この言葉は[命の洗濯]というふうに良い言葉として使われています。ちなみに、意味としては[リフレッシュする]や[気を休める]といった感じでしょうか。
 ところが、近ごろは別の[センタク]が使われ始められるようになりました。そう、[命の選択]です。技術の進歩により、今は胎児の性別はおろか、遺伝子や染色体までわかるようになりました。そしてそれらを調べて、生まれる前に異常(ここではある種の障害を指します。)を見つけることができるようになったのです。いわゆる[出生前診断]ですね。

 これはねぇ、、参りましたねぇ。。

 この診断自体は全然良いのですが、問題はその後です。万が一、異常が見つかった場合、そこで[命の選択]が行われてしまうわけですよ。結果、最悪その命は無かったものとされてしまいます。
 これを批判するのは簡単なんです。『障害者は生まれちゃいけないのか!』だとか、『多様性が大事』だとかという話に、つい持っていきたくなる気にもなりがちです。ただ、そんな単純な話でもないと思うんですよね。。もちろん私は当事者ですから、“基本的には”反対です。ですが、当事者だからこそ大声で“反対”とは言えないのも事実です。
 障害者の私がいることで、これまで家族、特に親の大変さも目の前で見てきました。きっと、嫌な思いもしてきたでしょう。悔しい思いもしたでしょう。母も父も、私が障害を持っていなければもっと違う人生があったかもしれないなと思ってしまいます。そう思うと、単純に“反対”とか“命を無くすのは悪だ!”なんて言えないと思うんですよね。。私自身、本当に何が正解なのかわからず考えてしまいます。
 いや、もちろん両親は私が生まれてきて良かったと言ってくれるでしょう。だけどね、、いらぬ苦労はしないに越したことはないんです。まぁ、何をもって苦労と言うかは人それぞれなので、「そんなの苦労じゃない」と言ってくれるかもしれませんが、私としてはちょっと複雑な気持ちになってしまいます。
 もちろん、これは私の話で、普通に考えれば障害者自身は堂々としていればいいし、何の責められるべきものもありません。ただ、ちょっと怖いのは、これが一般化してきたときに、ますます障害者の居場所や立場が窮屈になるかもしれないということです。極端な話、産まないという選択もある中、生まれてきたわけですから、余計に風当たりが強くなる可能性だって考えられます。そうやって少数派や特殊な立場にある人たちを排せきしていく世の中になっていくのでしょうか。それはねぇ、、いかんですよ。。俺ら、ロボットじゃないんだから・・・。不良品や規格に合わないものは“要らない社会”にしちゃダメなんです。

 医療もそう、コンピュータもそう、ネットもそう、技術が進むことはいいことではあるのですが、それが行き過ぎると逆に歪みを生んでしまうのが皮肉なところです。物理的に便利になったり、不可能だったことが可能になっていくのはありがたいのですが、それが扱いづらいシロモノになっては、どうしようもありません。要は運用のしかたなんですよね。。うまく使えば本当に便利だし、十分恩恵も受けられます。それが、ある一線を越えた途端、不便で扱いづらいものになってしまいます。その技術のポテンシャルを使う側が持て余してしまうようでは、本末転倒です。せっかくの技術をどう使うか。。それは[品性]だったり、[自覚]だったり、[配慮]といった言葉になってくるのでしょうか。
 出生前診断についても、性別ぐらいであれば「生まれる前から男か女かわかっちゃうなんて、楽しみが無くなっちゃうなあ。」なんていう程度で、笑える話で済んでいました。しかし、さすがに遺伝子って! ・・・。そこまで行っちゃうともう笑えませんよね。。ましてや、万が一悪い結果が出てしまった場合、それを知っちゃった以上、何も思わないはずがありません。自身や子どもの将来を思って絶望するかもしれません。あらかじめ準備ができるという一方で知ってしまった後悔も出てくるかもしれません。
 絶望や後悔も、してもらえればまだ救いもあるのですが、何かねぇ、、考えたくはないのですが、中には「え?なに?障害児? ムリ!おろします!」なんて会話も出てきそうな気がするんですよね。。

 今は、何でもすぐに答えを求める風潮になっています。そして、本意を知ろうともせず合理的で正しい方向に進むことを半ば強要されてしまいます。なぜか今は“正しい方向”はみんな同じだと思っている人が多いようなんですよね。。
 逆に言えば、多数派の意見や意向で“正しい方向”が決められてしまっているような気がしてなりません。私は、そもそも“正しい方向”なんていうものはないと思っています。一人ひとりが、それぞれ正しいと思うことを信念として持っていればいいと思うし、それを人がとやかく言う必要はないのです。だってさぁ、、“正しい方向”なんて聞こえは良いけど、要は無難で万人受けするようなことなんでしょ!? つまらんです。(笑)それに、みんなが同じ方向に行っちゃう世の中って、、逆にやばいです。(笑)合理性を求めるのも結構、整合性を求めるのも結構、でもね、、それだけじゃ息が詰まりますよね。。別に理屈が通ってなかろうが、ちょっとムダでアホなことをしようが、それを寄ってたかって叩くことはないと思うのです。昔はもっと寛容だったと思うんですよね。。なんかこう、他者を受け入れる余裕というか、気がせいてない感じがあったような気がするんです。

 そもそもの話、リスク、リスクと言いますが、リスクってどっちのことを言っているんでしょうかね。。生まれてくる子どものことを言っているのでしょうか?それとも、親のことを言っているのでしょうか?もし、後者のほうを言っているのであれば残念です。それに、子どものリスクってのもわからないです。障害者ってそんなにリスキーなの??だったら、障害者でもリスクのない社会にしていけばいいだけのことだと思うんですけどね。リスクばかりを心配して、最初から無いものにするなんて、あまりにも親の身勝手です。
 まぁね、、とは言っても冒頭でも書いたように親自身もその後の人生があります。“苦労”はともかく、さまざまな葛藤も出てくるでしょう。ただ、それも含めて受け入れてほしいなとも思うのです。
 私は親ではありません。これから先もなれる確率は低いでしょう。(汗)実際、親の気持ちがどんなものかは、わからないかもしれません。ですが、せっかく生まれてこようとしている命に対して、いくら肉体的・社会的にハンディがあるからと言って、それを無いものにしてしまおうというのは、あまりにも理不尽に思えてしまいます。

 健常者も障害者も命の重さは同じなはずです。ですが、このような検査(診断)があることで、どこか障害者の命が軽く見られてしまうのが残念で悔しいです。差別や偏見を無くそうと一生懸命訴えても、それ以前に生まれる前から[センタク]があるなんて、障害者、、、厳しいなぁ。。。

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