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こころのUDってなに?
前項で[こころのUD化]が進めば・・・という話をさせていただきましたが、[こころのUD化]とは何でしょうか。おそらく読んでくださった方も”こころのUD・・・?”と疑問に思った方も多いかと思います。実は私も、自分で書いておきながら”まてよ、こころのUDって・・・”という思いがふつふつと沸いてきてしまいました。 いったい、[こころのUD]って何・・・?
前項の文脈からそのまま解釈するとしたら、[こころのUD]とは介助される側の意見を尊重したり介助する側の気持ちを押し付けないということになるのでしょうが、本当にそんなことなのでしょうか。確かに上のようなことも含まれてはいると思うのですが、私にはどうもしっくりきません。それでは介助する側はされる側の言いなりになってしまうということになりますし、介助される側もそう思われていると思うとかえってお願いしづらくなってしまいます。それではうまくありません。それに、”介助”というのは基本的にはUDではなくバリアフリーの考え方です。
私が思うに、[こころのUD]というのは以外に簡単なことのような気がします。
それは、介助する側もされる側も、相手の気持ちを察する・または相手の価値観に乗っかってみるということが”それ”なのかもしれないと思うのです。相手のことを思いやるだの相手の立場に立つだのというのは、実際話が大きすぎるしかなり重いです。それならもっと気軽に”たまには相手の言うことに乗ってみるか!”という感じでいたほうがよっぽど[UD]なのかもしれません。もちろん時には”絶対ゆずれない”ということも出てくるでしょう。それは感情というものを持っている以上、仕方のないことです。よっぽど緊急のときでもない限り、そのときは物別れに終ってもいいのだと私は思うのです。
介助される側は”また今度にするか”・”何か自分でできる方法はないかな”と思えば良いし、介助する側も”今度はやってやるか”と思ってもらえばずいぶん楽な関係になると思います。ただこれはあくまで理想論であって、現実はそう冷静にはやり取りできないかもしれません。しかもここで気をつけなければならないのは、物別れの仕方です。
前項の例でいうと、夜コーヒーが飲みたくなったときに、どうしても飲みたい方と飲ませたくない方がぶつかるわけですよ! そこで物別れになるというのはどんな状況でしょうか。
おそらく両者が納得した・しないに関わらず、結果的にコーヒーは飲むことができないのではないかと思います。これは果たして本当に”物別れ”といえるでしょうか。介助する側が納得できるかどうかということと、実際に介助するかどうかということは別の次元のことなのではないかと私は思うのです。
介助される側もあまり”権利だ!””主張だ!”などと言わず、臨機応変に対処したいものです。そういう意味で考えると、人に何かを頼むことは、実はとてもデリケートなことなのかも知れません。しかも、それは相手との関係が近ければ近いほど・また頼む内容が重要ではないほど難しくなってきます。例えば、毎日顔をあわせる家族や友人とは、そうぶつかってばかりもいられません。かといって我慢のしどうしではストレスがたまってしまいます。また、今聞いているCDが飽きたから入れ替えてほしくても、緊急性がない分いちいち呼びつけてまで頼むことはどうも気がとがめます。[こころのUD]というのは、もしかするとNeeds(必要)だけでなくWants(欲求)も認めることなのかもしれません。
ここまでは1対1の場合を考えてみましたが、では公の場の場合はどうでしょうか。
無論、前述のようなことは、こちらの場合でも当てはまると思います。ただ、根本的な話として私は特にUDを意識する必要はないように思います。要は普通に(気軽に)接することが大事なのではないでしょうか。
例えば、車椅子やお年寄りだからといって特別扱いされても困ってしまいますでしょうし、特別扱いするほうもしまいには疲れて”あー、もう今度から一緒にいるのやめよう”と思ってしまうかもしれません。それよりは困りごとや頼みごとが起こったときに、助けられる人が助けるのが自然で普通なことなのではないでしょうか。ただし、普通とはいってもどちらか一方が助けてもらうばかりではUDとはいえません。自分が助けてあげられることと、助けてもらうことのバランスが取れていなければならないのではないでしょうか。
例えばあるグループでどこかに出かけた場合、車いすの人であれば押してもらう分、目的地までのナビゲータをしたり、お年寄りの人であれば荷物を持ってもらう分、困りごとの時には知恵を貸すなど決して助け合う度合いのバランスは取れていなくても自分には何か返すものがあれば[こころのUD]って成立するのではないでしょうか。
いずれにしても、あまり肩ひじ張らずにいれば良いと思いますし、もしかすると[こころのUD]なんて言葉も必要ないのかもしれません。なぜなら、介助する側・される側の立場はその場面により入れ替わるのですから。
追伸
私自身は日頃、どちらかといえば介助される側のほうが多いです。ですので多少意見が偏っているかもしれません。ご意見やご感想をお聞かせいただけるとうれしいです。